自分にとってblogは人生の覚書。Art、映画、音楽に関するTopicsを新旧おりまぜ日々更新中。毎日ココロに浮かんでは消える想いなどつぶやきます。たまに旅をします。(c) jigenlove All rights reserved.


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サンクリストバル島

何年ぶりの更新になるのでしょうか、ご無沙汰しております。昨日からガラパゴス諸島のサンクリストバル島へ来ました。地元民にさえ一週間もいるの⁉︎ と驚かれますがいいんです。人生は死ぬまでの暇つぶし。アザラシでも描いてきます。
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by jigenlove | 2016-12-12 00:39 |

ぶらっといらぶ

今日のお昼、高速フェリーで伊良部島へやってきました。
砂浜で夕陽が沈むのを眺めながら宿の人総出でBBQ。
とりあえず熱があるので早引けしてきてこれから寝ます。
おでこに氷で冷やしたタオル。
あいかわらず旅先にて療養中。
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by jigenlove | 2008-09-18 21:03

'08沖縄旅9/14~9/15

宮古島へ那覇乗継で直行するはずが、行く前から懸念していた台風に加え、全日空のシステム障害で那覇空港で初日に足止めを食らう。
急遽予定外の那覇に1泊。振り替えで翌日7:25の便に変更手続きをし、宿代と交通費、千円の夕食代を受け取って20時過ぎに那覇から雨の中、那覇の目抜き通り、国際通りへ。
以前泊まったドミトリーへ電話で空きを調べようと電話すると、「空いてるよ。宴会やってるけど参加しますか」と訊かれる。
参加費500円でいきなり宴会突入。既に15人くらいいる中で人がちらほら加わり、何週か自己紹介。結局20人くらいで飲んだり食べたり、ゆんたくタイム。
私は翌日朝早いのもあり、途中7時間くらい経って寝たけど、他の人はそれからシメに何かを食べに行こう、と盛り上がってました。沖縄の夜は長い。

基本ノープランの旅に似つかわしく始まった旅の1日目。
つづく。
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by jigenlove | 2008-09-16 22:07 |

宮古島

にやってきました。
とりえず、これから夕食。
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by jigenlove | 2008-09-15 19:31 |

あなただけしか見えないのはいいことだろう 短編映画の・・・

恋をしてゆこう 徳永英明<You Tube>
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最近耳について離れなかった唄。吉永小百合さんがうとうとしていてそっと誰かに起こされふとつぶやくCMの、あの曲です。バックで流れる声がなんというか、繊細で忘れられない。



写真は'06宮古島の夕間暮れ。積もりたての雪みたいな砂浜にさく、さく、、、足跡をたくさんつけたのを思い出します。

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by jigenlove | 2007-03-15 21:39 | まいにち

自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない

あと数日で卒業。忘れられない言葉がある。
AppleコンピュータCEOのスティーブ・ジョブズ氏はプレゼン上手で評判。以下が有名な彼のスピーチ。


ジョブズの卒業祝賀スピーチ
(2005年6月12日、スタンフォード大学)
YouTube映像:Steve Jobs Speech
原文URL:
http://slashdot.org/comments.pl?sid=152625&cid=12810404



 PART 1 BIRTH

 ありがとう。世界有数の最高学府を卒業される皆さんと、本日こうして晴れの門出に同席でき大変光栄です。実を言うと私は大学を出たことがないので、これが今までで最も大学卒業に近い経験ということになります。

 本日は皆さんに私自身の人生から得たストーリーを3つ紹介します。それだけです。どうってことないですよね、たった3つです。最初の話は、点と点を繋ぐというお話です。

 私はリード大学を半年で退学しました。が、本当にやめてしまうまで18ヶ月かそこらはまだ大学に居残って授業を聴講していました。じゃあ、なぜ辞めたんだ?ということになるんですけども、それは私が生まれる前の話に遡ります。
 私の生みの母親は若い未婚の院生で、私のことは生まれたらすぐ養子に出すと決めていました。育ての親は大卒でなくては、そう彼女は固く思い定めていたので、ある弁護士の夫婦が出産と同時に私を養子として引き取ることで手筈はすべて整っていたんですね。ところがいざ私がポンと出てしまうと最後のギリギリの土壇場になってやっぱり女の子が欲しいということになってしまった。で、養子縁組待ちのリストに名前が載っていた今の両親のところに夜も遅い時間に電話が行ったんです。「予定外の男の赤ちゃんが生まれてしまったんですけど、欲しいですか?」。彼らは「もちろん」と答えました。
 しかし、これは生みの母親も後で知ったことなんですが、二人のうち母親の方は大学なんか一度だって出ていないし父親に至っては高校もロクに出ていないわけです。そうと知った生みの母親は養子縁組の最終書類にサインを拒みました。そうして何ヶ月かが経って今の親が将来私を大学に行かせると約束したので、さすがの母親も態度を和らげた、といういきさつがありました。

               ◆◇◆

 PART 2 COLLEGE DROP-OUT

 こうして私の人生はスタートしました。やがて17年後、私は本当に大学に入るわけなんだけど、何も考えずにスタンフォード並みに学費の高いカレッジを選んでしまったもんだから労働者階級の親の稼ぎはすべて大学の学費に消えていくんですね。そうして6ヶ月も過ぎた頃には、私はもうそこに何の価値も見出せなくなっていた。自分が人生で何がやりたいのか私には全く分からなかったし、それを見つける手助けをどう大学がしてくれるのかも全く分からない。なのに自分はここにいて、親が生涯かけて貯めた金を残らず使い果たしている。だから退学を決めた。全てのことはうまく行くと信じてね。
 そりゃ当時はかなり怖かったですよ。ただ、今こうして振り返ってみると、あれは人生最良の決断だったと思えます。だって退学した瞬間から興味のない必修科目はもう採る必要がないから、そういうのは止めてしまって、その分もっともっと面白そうなクラスを聴講しにいけるんですからね。

 夢物語とは無縁の暮らしでした。寮に自分の持ち部屋がないから夜は友達の部屋の床に寝泊りさせてもらってたし、コーラの瓶を店に返すと5セント玉がもらえるんだけど、あれを貯めて食費に充てたりね。日曜の夜はいつも7マイル(11.2km)歩いて街を抜けると、ハーレクリシュナ寺院でやっとまともなメシにありつける、これが無茶苦茶旨くてね。
 しかし、こうして自分の興味と直感の赴くまま当時身につけたことの多くは、あとになって値札がつけられないぐらい価値のあるものだって分かってきたんだね。

 ひとつ具体的な話をしてみましょう。

               ◆◇◆

 PART 3 CONNECTING DOTS

 リード大学は、当時としてはおそらく国内最高水準のカリグラフィ教育を提供する大学でした。キャンパスのそれこそ至るところ、ポスター1枚から戸棚のひとつひとつに貼るラベルの1枚1枚まで美しい手書きのカリグラフィ(飾り文字)が施されていました。私は退学した身。もう普通のクラスには出なくていい。そこでとりあえずカリグラフィのクラスを採って、どうやったらそれができるのか勉強してみることに決めたんです。
 セリフをやってサンセリフの書体もやって、あとは活字の組み合わせに応じて字間を調整する手法を学んだり、素晴らしいフォントを実現するためには何が必要かを学んだり。それは美しく、歴史があり、科学では判別できない微妙なアートの要素を持つ世界で、いざ始めてみると私はすっかり夢中になってしまったんですね。

 こういったことは、どれも生きていく上で何ら実践の役に立ちそうのないものばかりです。だけど、それから10年経って最初のマッキントッシュ・コンピュータを設計する段になって、この時の経験が丸ごと私の中に蘇ってきたんですね。で、僕たちはその全てをマックの設計に組み込んだ。そうして完成したのは、美しいフォント機能を備えた世界初のコンピュータでした。
 もし私が大学であのコースひとつ寄り道していなかったら、マックには複数書体も字間調整フォントも入っていなかっただろうし、ウィンドウズはマックの単なるパクりに過ぎないので、パソコン全体で見回してもそうした機能を備えたパソコンは地上に1台として存在しなかったことになります。

 もし私がドロップアウト(退学)していなかったら、
 あのカリグラフィのクラスにはドロップイン(寄り道)していなかった。
 そして、パソコンには今あるような素晴らしいフォントが搭載されていなかった。

 もちろん大学にいた頃の私には、まだそんな先々のことまで読んで点と点を繋げてみることなんてできませんでしたよ。だけど10年後振り返ってみると、これほどまたハッキリクッキリ見えることもないわけで、そこなんだよね。もう一度言います。未来に先回りして点と点を繋げて見ることはできない、君たちにできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だからこそバラバラの点であっても将来それが何らかのかたちで必ず繋がっていくと信じなくてはならない。自分の根性、運命、人生、カルマ…何でもいい、とにかく信じること。点と点が自分の歩んでいく道の途上のどこかで必ずひとつに繋がっていく、そう信じることで君たちは確信を持って己の心の赴くまま生きていくことができる。結果、人と違う道を行くことになってもそれは同じ。信じることで全てのことは、間違いなく変わるんです。

               ◆◇◆

 PART 4 FIRED FROM APPLE

 2番目の話は、愛と敗北にまつわるお話です。
 私は幸運でした。自分が何をしたいのか、人生の早い段階で見つけることができた。実家のガレージでウォズとアップルを始めたのは、私が二十歳の時でした。がむしゃらに働いて10年後、アップルはガレージの我々たった二人の会社から従業員4千人以上の20億ドル企業になりました。そうして自分たちが出しうる最高の作品、マッキントッシュを発表してたった1年後、30回目の誕生日を迎えたその矢先に私は会社を、クビになったんです。
 自分が始めた会社だろ?どうしたらクビになるんだ?と思われるかもしれませんが、要するにこういうことです。アップルが大きくなったので私の右腕として会社を動かせる非常に有能な人間を雇った。そして最初の1年かそこらはうまく行った。けど互いの将来ビジョンにやがて亀裂が生じ始め、最後は物別れに終わってしまった。いざ決裂する段階になって取締役会議が彼に味方したので、齢30にして会社を追い出されたと、そういうことです。しかも私が会社を放逐されたことは当時大分騒がれたので、世の中の誰もが知っていた。
 自分が社会人生命の全てをかけて打ち込んできたものが消えたんですから、私はもうズタズタでした。数ヶ月はどうしたらいいのか本当に分からなかった。自分のせいで前の世代から受け継いだ起業家たちの業績が地に落ちた、自分は自分に渡されたバトンを落としてしまったんだ、そう感じました。このように最悪のかたちで全てを台無しにしてしまったことを詫びようと、デイヴィッド・パッカードとボブ・ノイスにも会いました。知る人ぞ知る著名な落伍者となったことで一時はシリコンヴァレーを離れることも考えたほどです。
 ところが、そうこうしているうちに少しずつ私の中で何かが見え始めてきたんです。私はまだ自分のやった仕事が好きでした。アップルでのイザコザはその気持ちをいささかも変えなかった。振られても、まだ好きなんですね。だからもう一度、一から出直してみることに決めたんです。

 その時は分からなかったのですが、やがてアップルをクビになったことは自分の人生最良の出来事だったのだ、ということが分かってきました。成功者であることの重み、それがビギナーであることの軽さに代わった。そして、あらゆる物事に対して前ほど自信も持てなくなった代わりに、自由になれたことで私はまた一つ、自分の人生で最もクリエイティブな時代の絶頂期に足を踏み出すことができたんですね。
 それに続く5年のうちに私はNeXTという会社を始め、ピクサーという会社を作り、素晴らしい女性と恋に落ち、彼女は私の妻になりました。
 ピクサーはやがてコンピュータ・アニメーションによる世界初の映画「トイ・ストーリー」を創り、今では世界で最も成功しているアニメーション・スタジオです。

 思いがけない方向に物事が運び、NeXTはアップルが買収し、私はアップルに復帰。NeXTで開発した技術は現在アップルが進める企業再生努力の中心にあります。ロレーヌと私は一緒に素晴らしい家庭を築いてきました。

 アップルをクビになっていなかったらこうした事は何ひとつ起こらなかった、私にはそう断言できます。そりゃひどい味の薬でしたよ。でも患者にはそれが必要なんだろうね。人生には時としてレンガで頭をぶん殴られるようなひどいことも起こるものなのです。だけど、信念を放り投げちゃいけない。私が挫けずにやってこれたのはただ一つ、自分のやっている仕事が好きだという、その気持ちがあったからです。皆さんも自分がやって好きなことを見つけなきゃいけない。それは仕事も恋愛も根本は同じで、君たちもこれから仕事が人生の大きなパートを占めていくだろうけど自分が本当に心の底から満足を得たいなら進む道はただ一つ、自分が素晴しいと信じる仕事をやる、それしかない。そして素晴らしい仕事をしたいと思うなら進むべき道はただ
一つ、好きなことを仕事にすることなんですね。まだ見つかってないなら探し続ければいい。落ち着いてしまっちゃ駄目です。心の問題と一緒でそういうのは見つかるとすぐピンとくるものだし、素晴らしい恋愛と同じで年を重ねるごとにどんどんどんどん良くなっていく。だから探し続けること。落ち着いてしまってはいけない。

               ◆◇◆

 PART 5 ABOUT DEATH

 3つ目は、死に関するお話です。
 私は17の時、こんなような言葉をどこかで読みました。確かこうです。
「来る日も来る日もこれが人生最後の日と思って生きるとしよう。そうすればいずれ必ず、間違いなくその通りになる日がくるだろう」。それは私にとって強烈な印象を与える言葉でした。そしてそれから現在に至るまで33年間、私は毎朝鏡を見て自分にこう問い掛けるのを日課としてきました。「もし今日が自分の人生最後の日だとしたら、今日やる予定のことを私は本当にやりたいだろうか?」。それに対する答えが“NO”の日が幾日も続くと、そろそろ何かを変える必要があるなと、そう悟るわけです。
 自分が死と隣り合わせにあることを忘れずに思うこと。これは私がこれまで人生を左右する重大な選択を迫られた時には常に、決断を下す最も大きな手掛かりとなってくれました。何故なら、ありとあらゆる物事はほとんど全て…外部からの期待の全て、己のプライドの全て、屈辱や挫折に対する恐怖の全て…こういったものは我々が死んだ瞬間に全て、きれいサッパリ消え去っていく以外ないものだからです。そして後に残されるのは本当に大事なことだけ。自分もいつかは死ぬ。そのことを思い起こせば自分が何か失ってしまうんじゃないかという思考の落とし穴は回避できるし、これは私の知る限り最善の防御策です。
 君たちはもう素っ裸なんです。自分の心の赴くまま生きてならない理由など、何一つない。

               ◆◇◆

PART 6 DIAGNOSED WITH CANCER

 今から1年ほど前、私は癌と診断されました。 朝の7時半にスキャンを受けたところ、私のすい臓にクッキリと腫瘍が映っていたんですね。私はその時まで、すい臓が何かも知らなかった。
 医師たちは私に言いました。これは治療不能な癌の種別である、ほぼ断定していいと。生きて3ヶ月から6ヶ月、それ以上の寿命は望めないだろう、と。主治医は家に帰って仕事を片付けるよう、私に助言しました。これは医師の世界では「死に支度をしろ」という意味のコード(符牒)です。
 それはつまり、子どもたちに今後10年の間に言っておきたいことがあるのなら思いつく限り全て、なんとか今のうちに伝えておけ、ということです。たった数ヶ月でね。それはつまり自分の家族がなるべく楽な気持ちで対処できるよう万事しっかりケリをつけろ、ということです。それはつまり、さよならを告げる、ということです。

 私はその診断結果を丸1日抱えて過ごしました。そしてその日の夕方遅く、バイオプシー(生検)を受け、喉から内視鏡を突っ込んで中を診てもらったんですね。内視鏡は胃を通って腸内に入り、そこから医師たちはすい臓に針で穴を開け腫瘍の細胞を幾つか採取しました。私は鎮静剤を服用していたのでよく分からなかったんですが、その場に立ち会った妻から後で聞いた話によると、顕微鏡を覗いた医師が私の細胞を見た途端、急に泣き出したんだそうです。何故ならそれは、すい臓癌としては極めて稀な形状の腫瘍で、手術で直せる、そう分かったからなんです。こうして私は手術を受け、ありがたいことに今も元気です。

 これは私がこれまで生きてきた中で最も、死に際に近づいた経験ということになります。この先何十年かは、これ以上近い経験はないものと願いたいですけどね。

 以前の私にとって死は、意識すると役に立つことは立つんだけど純粋に頭の中の概念に過ぎませんでした。でも、あれを経験した今だから前より多少は確信を持って君たちに言えることなんだが、誰も死にたい人なんていないんだよね。天国に行きたいと願う人ですら、まさかそこに行くために死にたいとは思わない。にも関わらず死は我々みんなが共有する終着点なんだ。かつてそこから逃れられた人は誰一人としていない。そしてそれは、そうあるべきことだから、そういうことになっているんですよ。何故と言うなら、死はおそらく生が生んだ唯一無比の、最高の発明品だからです。それは生のチェンジエージェント、要するに古きものを一掃して新しきものに道筋を作っていく働きのあるものなんです。今この瞬間、新しきものと言ったらそれは他ならぬ君たちのことだ。しかしいつか遠くない将来、その君たちもだんだん古きものになっていって一掃される日が来る。とてもドラマチックな言い草で済まんけど、でもそれが紛れもない真実なんです。
 君たちの時間は限られている。だから自分以外の他の誰かの人生を生きて無駄にする暇なんかない。ドグマという罠に、絡め取られてはいけない。それは他の人たちの考え方が生んだ結果とともに生きていくということだからね。その他大勢の意見の雑音に自分の内なる声、心、直感を掻き消されないことです。自分の内なる声、心、直感というのは、どうしたわけか君が本当になりたいことが何か、もうとっくの昔に知っているんだ。だからそれ以外のことは全て、二の次でいい。

               ◆◇◆

 PART 7 STAY HUNGRY, STAY FOOLISH

 私が若い頃、"The Whole Earth Catalogue(全地球カタログ)"というとんでもない出版物があって、同世代の間ではバイブルの一つになっていました。
 それはスチュアート・ブランドという男がここからそう遠くないメンローパークで製作したもので、彼の詩的なタッチが誌面を実に生き生きしたものに仕上げていました。時代は60年代後半。パソコンやデスクトップ印刷がまだ普及する前の話ですから、媒体は全てタイプライターとはさみ、ポラロイドカメラで作っていた。だけど、それはまるでグーグルが出る35年前の時代に遡って出されたグーグルのペーパーバック版とも言うべきもので、理想に輝き、使えるツールと偉大な概念がそれこそページの端から溢れ返っている、そんな印刷物でした。
 スチュアートと彼のチームはこの”The Whole Earth Catalogue”の発行を何度か重ね、コースを一通り走り切ってしまうと最終号を出した。それが70年代半ば。私はちょうど今の君たちと同じ年頃でした。
 最終号の背表紙には、まだ朝早い田舎道の写真が1枚ありました。君が冒険の好きなタイプならヒッチハイクの途上で一度は出会う、そんな田舎道の写真です。写真の下にはこんな言葉が書かれていました。「Stay hungry, stay foolish.(ハングリーであれ。分別くさくなるな)」。それが断筆する彼らが最後に残した、お別れのメッセージでした。「Stay hungry, stay foolish.」 それからというもの私は常に自分自身そうありたいと願い続けてきた。そして今、卒業して新たな人生に踏み出す君たちに、それを願って止みません。

Stay hungry, stay foolish.

ご清聴ありがとうございました。

the Stanford University Commencement address by
Steve Jobs
CEO, Apple Computer
CEO, Pixar Animation Studios

翻訳 市村佐登美


AERA(2005年11月21日号)で「ジョブズ成功の5原則」というサブタイトルの記事が掲載されていた。
「決断は早く」
「エンターテイナーであれ」
「細部にこだわれ」
「過去にとらわれるな」
「つねに理想を掲げよ」

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by jigenlove | 2007-01-11 19:11 | 講演会・シンポジウム

続々・タイラストナイト

「ここで待ってて。あと少ししたら近所のもうひとつの店舗に行くから。」

とCD屋の兄ちゃん、オーレェが言う。
一人旅で気ままにどこへ行くにも自分で決めてきた私にはなんだか新鮮だった。身の振り方を指図されるのがうれしい。別にマゾヒストというわけではない。ただいつ何をしてもいい、ここにいてもいなくてもいい、という状況には飽きてきた。
という訳で買い物も済ませ私はまたこの店に休みに来たのだった。

外国で気をつけなくてはならないスリや引ったくり、置き引き。
いい気にさせて睡眠薬を混ぜた飲み物をすすめて身ぐるみ剥がしたりポケットに麻薬を入れたり。そういうもしもに備え、よくある犯罪の手口の予備知識だけはひととおり知るようにした。騙されたら困るのは自分。警戒心があれば未然に防げるものばかりだ。

ただし警戒してばかりだと疲れるし楽しみにくい。
そんな時はその人を見て、後はなんとなく感覚で判断した。嘘やでまかせは目や仕草が語る。実際出会う人は親切で気前のいい人が圧倒的に多かった。道を訊いたら一緒に途中まで連れて行ってくれる。少し話して一緒に船に乗ると席を確保してくれ、乗車賃を払おうとするといらないと言われる。学校の先生はバス代を貸してくれようとする。行きに高い運賃をふっかけてきて断ったタクシー運転手に帰り道で会うと「今日はどこへ行ったの?」とにこにこ訊いてくる。今日も学校だよ。そうか。「キン カオ レォーオ?(’ご飯食べた?’挨拶代わりに用いる)」と返すと笑ってくれた。

そのCD屋でトイレを貸してくれと頼むとともう一軒の店にあると言う。
オーレは用が済んだらしく、一緒に店が並ぶ小道を抜けていった。現地の人と歩くと怪しげな路地だってこんなにも安心感がある。次の店に着いた。
トイレの張り紙を見たオーレが困った顔をした。
『OUT OF ORDER』
近くのシティホテルで借りたらいい、そこを出てすぐ左だよ、と教えてくれるが私は戸惑った。利用していない宿泊施設でトイレだけ借りるなんて入りづらい。「えー」という感じの私をオーレの弟、オンがそこへ連れて行ってくれた。花が生けられた豪華なロビー。施設内のマッサージルームのおばさんが暇そうに私を呼び込んでくる。ああトイレ、そこね、と教えてくれた。

外ではオンが待っていてくれた。店に戻るとそこにいた他の売り子も交え、再び話す。自分の名前を漢字で書いてくれ、なぜマッサージを習いにきたの、日本でジーンズはいくらするかとかの他愛ない話だ。

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夜の10時にさしかかり、そろそろ帰らなくてはならない時間だった。帰りたくない。もう少しだけ。10時半になった。
「11時になったら店を閉めて他の友達のところで遊ぶから君も一緒に行こう。」

友人宅、それは避けたほうがいいんだろうな、行きたいけど。すでに先程までの彼らを見ていてある程度の警戒心は解いていたが、自ら進んでほいほいと密室に入るのはいくらなんでもまずい。「友達の部屋で遊ぶの?それは危ないんじゃない?」とオーレに訊くと違う違うと言う。外の道端で話してずっと過ごすんだよ、ギター弾いたり歌ったりしてさ。君はできる?オンは待ちきれないぜとばかりに空で弦をはじく素振りをした。ちょっとすごく楽しそうだ、行きたい出来れば行きたいんだ。苦しそうに迷ってしばらく考えた。

明日一日の予定を考えると帰らなければならなかった。車で遠出した後にその日の深夜便で帰国するハードスケジュールで、その観光の車が何時に迎えに来るか、夜電話がホテルの部屋にかかってくるとガイドのポムさんから言われていた。明日のスケジュールが立たない。携帯がないってのは不便だな。

しばらく悩んだ後、一旦部屋に帰ることにした。休息か、夜通し遊ぶか。どちらも捨てがたく、今朝から強烈な腹痛に襲われたことなどなかったことにしてもいい、それくらい彼らといるのは楽しかった。「電話を待たなくちゃならないから一度帰る。それからどうするか決めるよ」とオーレに告げると分かった、どちらに決めても電話してくれと番号を渡された。

タクシーに乗るとまもなく眠気が押しよせて来た。連日の暑さと疲れからか体躯がだるい。遠くで雨の音が聞こえる。雷とスコールがバンコクの夜を洗い流す。
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眠気でずっしりと重い体でなんとか部屋まで辿りつき、ガイドの人とオーレに電話してすぐベッドで熟睡した。オーレとは「次いつタイへ来る?また遊ぼう」と叶うとも分からない約束をして別れた。タイにきたらカオサンのあのCDショップに来い。きっとだ、俺の携帯番号なくすなよ。わかった。

またね、さよなら。
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by jigenlove | 2006-08-19 23:35 |

続・タイ最後の夜

拾ったタクシーは運転手が饒舌だった。
わたしが少しタイ語を喋るとわかるとやたらと話しかけてきた。
俺には彼女が2人いる。キミ可愛いね、彼女にならない?ありがとう、結構です。
それは無理です、というよりまっぴら御免です。とにかくなんでもいいから前を向いて運転してくれと祈りながら適当に不自由なタイ語で答えた。

混み合った歩行者天国の入り口で車を降りた。
前に来たといってもすぐには思い出せない。
少し歩くとすぐマックはあった。スペイン人アレックスと落ち合い場所にしたマクドナルドだ。挨拶だけして、後は少し土産物屋でも見物して、身の危険を少しでも感じたらすぐにタクシーを拾ってホテルへ帰ろうと心に決めていた。
意を決して店内を覗いてみたがアレックスはいないし、その友人らしいいかにもなスペイン人グループは見当たらなかった。言っていた時間は過ぎている。なーんだ、私はマックを後にした。

すこし歩くと見覚えのある路地や店に懐かしくなった。でも道行く人をすべて警戒しながら歩くのは疲れる。ひときわボリュームの大きなCD屋に入った。店内が蛍光灯で煌々と明るく安全そうだったからだ。

PCで焼いたCD屋は一枚100バーツ、10枚買えばひとつおまけというコピーCD屋だった。同じ年頃の売り子の男の子が話かけてくる。
わたしはだらだらと適当なCDを手に取ったり眺めたりしながらそこで休んでいた。
「暑いね」と何とはなしにその子に話しかけると店の一番奥に椅子を出してくれた。入り口はクーラーが壊れてるんだ。ここへ座ればいい。

彼は客でもなさそうな私をそこへ座らせるとここで待ってろと言う。
他に来たお客の対応をするとまた戻って私と英語とタイ語のちゃんぽんで話し、また他の客の対応に席を立つ。さっき初めて入った店で私は常連客のような扱いを受けている。愉快で快適だった。

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CD屋のオーナー、この顔立ちで華僑だという店長は英語と中国語のみでタイ語は通じなかった。
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by jigenlove | 2006-08-18 23:44 |

タイラストナイト

実質的なタイでの最後の夜は、申し込んだアユタヤ一日観光がなぜか大阪のおばさんとおじさんと一緒だった。それはそれで楽しかったのだが情緒や感慨に耽る時間は過ごせない。印象深いのは終わりから一日前の晩だった。

始まりは前日、雨に降られ道に迷い途方に暮れた夕方に出会ったスペイン人、Alexだった。私と同じく雨に打たれ、道に迷っていた。曲がり角で立ち止まり歩き出したり、という私を見かけ、自分と同じだと思って声をかけてきたらしい。その日にバンコクに着いた彼は、泊まり先の電話はおろか名前も思い出せないと言う。

彼はマッチョでドレッドヘア、サングラスで赤と白のTシャツといういでたちでいかにも南国へ羽を伸ばしにきた欧米人だった。仕事は、と訊くとDJで近々東京へも行くと答えた。どこから来たか、なぜ迷っているかなどと話しながらなんとなく一緒に歩いて道を尋ねたりしていたが、私は郊外のウィークエンドマーケットへ行きたくて先を急いでいた。
時間がないの、もう行かなくちゃと告げるとアレックスはもし空いていたら明日カオサンのマックへ来いと言う。なぜ?と言うと、少し話せて君が気に入った。他の友人も大勢いてだべりながら過ごすんだよ、きみも来い。待ってるよ。アディオス。

その旅でまだカオサンに行ってなかった。
前回すでに行ったし、常にバックパッカーで溢れていて特に欧米人が幅を利かせ、だらだら酒を飲んだり割高な土産屋が軒を連ねているイメージしかなかった。それに今回は女一人旅、夜に繁華街を歩くのは特に日本人の私だと危なっかしい。

おまえが1人で旅行なんて危ない。タイなめんなよ?せめてハワイかバリ島にしろ、と2番目の兄から脅しとも忠告ともつかないアドバイスを受け止められていたのもあり、家族には今回の旅行を伏せていた。
慎重というよりむしろ臆病なことは自覚しているから、夜ホテルからは出ていない。
でも今回の旅で実質最後のその日の夜、マッサージ学校の試験を終えていったん部屋へ戻りシャワーを浴びると、着替えてタクシーに乗っている自分がいた。

街は夕暮れ、ライトアップが美しい。
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プミポン国王在位60周年記念祭で街の中心大通りはライトアップされている。
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by jigenlove | 2006-08-18 23:01 |

Never ending story

'Neverending Story' song by.Limahl


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by jigenlove | 2006-08-13 23:33 |