自分にとってblogは人生の覚書。Art、映画、音楽に関するTopicsを新旧おりまぜ日々更新中。毎日ココロに浮かんでは消える想いなどつぶやきます。たまに旅をします。(c) jigenlove All rights reserved.


by jigenlove
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おまけの人生

母が今月で59歳になる。

なにかあると彼女はこうつぶやく。
「おまけの人生だもの、こうしているだけでいいのよ(十分幸せよ)。」

物心ついた頃、母は普段会えない人だった。長期入院していたのだ。

見舞いに行っても父と祖母だけ病室に入り、廊下のベンチでひとり待った。病気の原因がはっきりわからない段階で、免疫力の低い子どもは病室に入れてもらえなかったのだろう。その時はただひとりで待つことが退屈でベンチで足をぶらぶらさせて待った。看護婦さんが気にかけて話しかけてきたりしたこともあった。不憫に思っていたのだろう。

病院の個室で久しぶりに会った母は大きなベッドから掠れた声で私を呼んだ。声だけ聞こえて顔が見えない。枕元へ近づいていくとようやく姿が見えた。鼻にチューブを付け、母なのに知らない人のように思えた。

急に照れくさいような、恥ずかしいような気持ちになりうまく喋れない。保育園で上手だと褒められた、キノコのおうちで遊ぶ絵を持っていったのでもじもじしながら見せた。今思えばそれが入院始めのころだった。

病気の発覚後、長期入院になることが決定したあたりで保育園を辞めて私は叔母や父方の実家に、兄2人は母方の実家に預けられた。私が小学校へ上がるまでそれは続いた。従兄弟にいじめられ、毎日カレンダーを眺めて帰る日を指折り数えた。カレンダーの絵をはっきり覚えている。

小学校へあがるのを機に、兄弟三人戻って鍵っ子、父子家庭状態になった。月に何回も、片道5時間の遠方から泊りがけで母方の祖母が世話に来てくれた。学校から帰ると、ポテトサラダをタッパーウェアに詰め、祖母とバスを乗り継いで見舞いに通う日が続いた。車で行けば近い市内の病院も、いったん駅まで出て乗り継ぐバスでの道のりは長く、乗り物に弱い私にはこたえた。

この頃、母は何度も危篤状態になり同室で同じ病気の人はほとんど亡くなったそうだ。

鍵っ子はなかなか悪くなかった。兄弟三人で好きなだけテレビをみて過ごせたからだ。水戸黄門、仮面ライダー、クリーミーマミ、ふしぎなメルモ、ドラゴンボールなど挙げればきりがない。夕方も遅くまで団地で遊んだ。

それでも授業参観やマラソンの応援、お迎えに来てくれる他の家がうらやましかった。

母が退院する時に書いた日記を覚えている。「お母さんが酸素ボンベと一緒に退院します」とかなんとか書いて、先生に大きな花丸をもらったっけ。

母は薬の副作用で激痩せ・激太りを行ったりきたりし、他の病気にもかかり、たびたび入退院を繰り返した。
退院後も体は疲れやすくて、「一緒に出かけてもすぐ疲れちゃうんだもん、つまんない」などと心無い言葉で母を責めたこともあった。悲しい思いをさせたと思う。



今でこそ母はいつでも駄洒落を言う、郡上踊りに熱を上げる、気功や自彊術に励む明るくてパワフルなおばちゃん。
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by jigenlove | 2010-03-21 22:28 | おめでたきこと